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第23話 はじめての共闘④

Auteur: なつめ
last update Date de publication: 2026-08-06 22:05:02

「三日後の早朝」

 ほとんど音にならない低さで。

 リリアーナは一瞬だけ目を揺らし、それからごく小さく頷いた。

 外から見れば、ただ甘い囁きに反応した婚約者の顔だろう。

 だが実際には、罠の一つ目が落とされた瞬間だった。

 右前方で、ジュリアンヌ夫人の扇が少しだけ高く動く。

 それを見ていた使用人の一人が、視線を外へ流した。

 反応した。

 セドリックも気づいたらしい。

 彼の指先が、リリアーナの腕へ一瞬だけ触れる。

 褒めるでもなく、ただ確認の合図として。

 その接触に、胸がひどく変なふうに鳴る。

 作戦中だ。

 ただの合図だ。

 分かっているのに、身体は昔を知らないみたいに正直だった。

     *

 夜会の中盤、二人は舞踏を一曲だけ踊った。

 それは予定にはなかった。

 だが、主催家の老侯爵夫人が「せっかくですもの」と柔らかく勧め、周囲の視線も期待を隠さなかった。断れば不自然になる。だからセドリックは一拍だけこちらを見て、その目で問うた。

 大丈夫か。

 リリアーナは、ほんの少しだけ顎を引いた。

 やるしかない。

 曲は遅く、穏やかな三拍子だった。

 彼の
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  • もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません   第25話 優しさに慣れてしまう前に④

    「怖いのよ」 気づけば、ぽつりと口にしていた。 エマが動きを止める。  紅茶を注ぐ途中の手がわずかに止まり、それからゆっくり続きを注いだ。  聞いている。  でも急かさない。  その沈黙に甘えて、リリアーナはもう少しだけ言葉を続けた。「前みたいに冷たかったら」 「……」 「まだ、怒っていられるでしょう」 「はい」 「でも今は、細かいことばかり見てくる」 「はい」 「食べたかどうかも」 「はい」 「寒くないかも」 「はい」 「私がどうしたいかまで」 「……」 「そんなの、慣れてしまうじゃない」 最後の一言は、ほとんど独り言に近かった。 慣れてしまう。 それがどれだけ危険なことか、自分だけが知っている。  優しさは、最初は異物だ。  でも毎日少しずつ差し出されると、体がそれを当然のように覚え始める。  今日も温度がちょうどいい。  今日も食べられるものが出てくる。  今日も寒さへ先に気づいてくれる。  今日も、自分の意見を先に聞く。 そういう日々に慣れたあとで、それが失われたら。 たぶん、もう立てない。 前世の自分は、愛されていないと思っていたから耐えられたところもあった。  求めなければいい。  期待しなければいい。  そう自分へ言い聞かせることで、ぎりぎりまで立っていられた。 今度は違う。  期待してしまう。  信じてしまうかもしれない。  そうなってから失うのは、きっともっとひどい。「今度こそ信じて」 「……」 「また失ったら、どうしたらいいのか分からない」 そこまで言ってから、リリアーナは口をつぐんだ。 部屋の中が静かになる。  窓の外では、夕方の風が枝先を揺らし、日が落ちかけた白い光が少しずつ青みを増していた。 エマはしばらく何も言わなかった。  それから、カップを主人の前へ置き、やわらかく言う。「慣れてしまう前に、怖いと仰ってください」 「……え?」 「侯爵様に」 「そんな」 「お嬢様は、前は何も言えなかったのでしょう」 「……」 「なら今度は、怖いことを怖いまま伝えればよろしいのです」 「……」 それは簡単そうで、ひどく難しいことだった。 怖い。  慣れてしまいそうで。  優しさが当たり前になりそうで。  今度こそ信じそうで。  そして

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    「私は遅らせてもいいと思う」 彼はそう言ってから、一拍置いた。「だが、君はどうしたい」 リリアーナはその時、本当に言葉が出なかった。 どうしたい。  そんなふうに訊かれること自体が、久しぶりだったから。  父も継母も、たいていは「どうあるべきか」を先に言う。  伯爵家にとってどうか。  外聞としてどうか。  令嬢としてどうか。  そういう“あるべき”の中でしか、自分の希望を問われたことがない。 だから「どうしたい」とだけ聞かれると、逆に空白が広がる。  自分の本音を、そのまま口にしていいのだと、すぐには信じられない。「……遅らせるのは、少し怖いわ」 「どうして」 「待つ時間が伸びるでしょう」 「……」 「狙われるかもしれないって分かったあとで、“その日”が先に延びるのは、少しつらい」 そう言ってから、自分で少し驚いた。  こんな弱音を、そのまま口にすると思わなかったからだ。 だがセドリックは「分かった」とだけ言い、そこで会話を終わらせなかった。「では予定通りにする」 「……」 「ただし護衛を増やす。君が待つ時間をこれ以上長く感じない形で」 「……」 その時、胸のどこかが、ひどく静かに揺れた。 以前のように「危険だから遅らせる」で終わらせない。  かといって、こちらの恐れだけを優先して判断を雑にもしない。  意見を聞いたうえで、全体を組み直してくる。 そういう優しさは、派手ではない。  でも、じわじわと効く。 だから怖い。 こんなふうに、少しずつ意見を聞かれ、少しずつ気遣われ、少しずつ体のことを見てもらうことに慣れてしまったら、どうなるのだろう。 今度こそ信じてしまうかもしれない。  今度こそ、この人は変わったのだと思ってしまうかもしれない。  そして、もしまた失ったら。 失ったら、どうするの。 前世の終わりよりもっとひどいかもしれない。  少なくとも、今の自分はもう「愛されていない」と思い込むことで自分を守れない。  知ってしまったから。  あの人が最初から愛していたことも、守るつもりで沈黙したことも、同じ悪夢を見てきたことも。 知ってしまったうえで、また失うのは、きっと前世の何倍も痛い。     * 夕方、侯爵家の書類が届いた。 西の薬草院へ向かうまでの護衛配置表、宿場の変更

  • もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません   第25話 優しさに慣れてしまう前に②

     寒さもそうだった。 今年の春は遅い。日差しだけは白くやわらかくなっているのに、風の底にまだ冬が残っている。朝夕は特に冷え、庭へ出るだけで指先がじんと冷たくなる。侯爵邸の東庭の東屋で、共闘の話をしたあの日以来、リリアーナは風の匂いに少し敏感になっていた。外の空気は息がしやすい。だが、長く居れば体温を奪う。「それでは足りない」 ある日、東屋で書類を広げていた時、セドリックはそう言った。 西へ向かう際の関所用の通行証と、薬草院での滞在名目の文面を、最終的に侯爵家側で確認してもらう必要があった。伯爵家の書斎で父と向き合うより、外の東屋のほうがましだと、リリアーナが自分で言ったのだ。エマがショールを肩へかけ、炭火鉢も用意した。だから十分だと思っていた。 けれど、セドリックは書類より先に、そのショールの端へ目を止めた。「それでは足りない」 「足りるわ」 「手が冷えている」 「元からよ」 「元からならなおさらだ」 「……」 その言い方が、あまりにも当然みたいで、リリアーナは一瞬だけ返す言葉を失った。 前世では、冷えた手は自分で温めるものだった。  暖炉へ近づく。  湯飲みを抱える。  膝掛けを増やす。  そういう小さな工夫を、誰に言われるでもなく自分で覚えた。 今は違う。  彼が当たり前のように気づく。  そして、当たり前のように指摘する。 ほどなくして、侯爵邸の年嵩の侍女がもう一枚厚手の膝掛けを持ってきた。色は落ち着いた青灰で、季節の花も飾り糸もない、実用品としての布だ。だがその素っ気なさが、逆に気を遣わせない。「勝手ね」 「寒いのは事実だ」 「そういうところ」 「何だ」 「以前は、こういうこと、一度も言わなかったでしょう」 「……」 その問いに、セドリックは一拍だけ沈黙した。  そして、ごく低く言った。「以前は、言う資格がないと思っていた」 「今はあると思うの?」 「思わない」 「じゃあどうして」 「……黙って見ているほうが、もっと悪いと分かったからだ」 その答えが、喉の奥に細い棘のように残った。 優しい。  でも、簡単に受け取れない。  受け取ってしまえば、昔の冷たさまで少しだけ説明がつくような気がしてしまうから。 説明がつくことと、許せることは違う。  そう自分へ何度も言い聞かせなければな

  • もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません   第25話 優しさに慣れてしまう前に①

     それは、大きな出来事ではなかった。 花束のように目立つものでも、夜会の真ん中で腕を取られるような劇的なものでもない。誰が見ても分かる「特別」ではなく、見落とそうと思えばいくらでも見落とせるような、小さな変化ばかりだった。 けれど、そういうものほど、気づいてしまうと厄介だった。 朝、部屋へ届くお茶の温度が、以前より少しだけぬるめになった。 最初は偶然だと思った。エマが気を利かせただけかもしれないし、侯爵邸の女医が「胃に負担をかけないように」と言ったからかもしれない。だが二日、三日と続くうちに、それが偶然ではないのだと分かった。熱すぎる飲み物を、リリアーナは昔から少し苦手としていた。口をつけるまでに間が要る。前世の食卓では、それを誰も気に留めなかった。冷めるまで待てばいいだけのことだと、自分でもそう思っていたから。 今は違う。 気づけば、出されるお茶は最初から少しだけ温度が落ちている。  温かいが、すぐに飲める温度。  誰かが、気にしている。 食事もそうだった。 以前のセドリックは、リリアーナが食べているかどうかを見ていたのか見ていなかったのか、判然としない時が多かった。前世では、その判然としなさ自体が苦しみだった。見ていても何も言わない。気づいていても触れない。食べられない日も、食卓を立つ背中へ視線が落ちるだけで終わる。 今は違う。 同じ席につく機会があれば、彼はまず料理ではなく、リリアーナの皿を見る。  パンを半分しか取っていない。  スープに口をつける前に、先に水を飲んだ。  肉へナイフを入れたまま、数秒止まった。  そういう小さな兆しを、今の彼は見逃さない。「それは無理に食べなくていい」 ある日の昼、そう言われたのは、肉の香りだけで胃が少し重くなった時だった。 伯爵家と侯爵家の間で、出立の日程を表向きにどう処理するかという話し合いがあり、珍しく同じ卓で昼食を取ることになった。父も継母も、最近の「関係修復らしい」噂を利用したいのか、表向きは以前よりも穏やかな顔を作っている。けれど、その穏やかさの中にある計算の匂いは、今のリリアーナにはもう隠しきれていなかった。 銀の蓋が開かれ、肉の温かい匂いが立った瞬間、胸の奥が少しだけむかついた。昨夜は眠りが浅く、今朝もパンと薄いスープしか入っていない。食べなければいけないと思うほど、

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    「何に怒っているの」 「怒ってはいない」 「嘘」 「……」 「それに、これはあなたの立場で口を出す話ではないわ」 「君の移動の話だ」 「ええ。でも、薬草院の人と私が話しているところへ来て」 「……」 「不慣れな男を近くへ置くな、なんて」 「……」 「それ、何?」 問いを向けた瞬間、セドリックは黙った。  否定すればいいのに、できない。  それだけで答えになっている。 リリアーナは、ふうと息を吐いた。「……本当に、子どもみたい」 「……」 「今まで何も言わなかったくせに」 「……」 「そういうのだけ出すのね」 セドリックの喉が動く。  言い返したいのではない。  自分でも自覚があるのだろう。  みっともないと。  でも、抑えきれないのだ。 だから余計に滑稽で、そして少し切ない。 カイは気まずさを隠しきれないまま、それでも礼儀正しく頭を下げた。「リリアーナ様、必要書類は置いていきます」 「ありがとう」 「叔母上には、到着の見込みをもう一度だけ文で知らせてください」 「ええ」 「侯爵様」 最後に、カイはセドリックへも一礼した。「ご懸念は理解いたしました。ですが、私に他意はございません」 「……」 「リリアーナ様が安心してこちらへ来られるよう、必要な準備をするだけです」 「……そうか」 それ以上の悪意は返さなかった。  だが、声音はまだ冷たい。 カイが去り、扉が閉まる。  途端に、部屋の中の空気が別の意味で重くなる。 エマが「お茶をお持ちします」と言ってすぐに下がってくれたのは、たぶん最大限の配慮だった。  残されたのは、リリアーナとセドリックだけ。「……ねえ」 リリアーナが先に言う。「自分で分かってる?」 「何を」 「今、ものすごく嫉妬していたこと」 「……」 やはり黙る。  その沈黙が、否定より雄弁だ。「信じられない」 「……」 「あなたが、そういう顔をするなんて」 「……」 「しかも、今頃」 その“今頃”に、ひどく色々な意味がこもる。 前世で何も言わなかった年月。  今世でようやく表に出てくる感情。  遅すぎる独占欲。  全部だ。 セドリックはしばらく窓の外を見た。  庭は静かで、風だけが枝を揺らしている。  その沈黙が長くなりすぎたところで

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